「主の前では 小さくなる
主の後ろでは 涙もろくなる」
僕が初めて、教会の礼拝に参加した時、歌った讃美の歌詞です。
「自分、ちっさ。」と思いました。
聖書を学び、神様という存在を知るまで、
自分なりに頑張って生きてました。
大学生の頃、まだ聖書に出会っていなかった時、
自分の将来をどうするかをひたすら考えていました。
専門のスポーツ社会学をより深く学ぶためにアメリカに行こうか?
そのために英語を学ぼうか?
ただ英語を勉強するだけでは足りない、本を読もうか?
ひとつひとつやろうとすると、1日24時間はとても足りませんでした。
だから夜中の2時に起きて机に向かっていた時期もありました。
ある日の夜中、
ワンルームマンションの真っ暗な自分の部屋で、床に座り込みながら、
「本当に将来、自分はどうなるんだろう?」と真剣に考えたことがありました。
その時、
確かに誰かが、後ろから自分を見下ろしている感じがしたのです。
正確には、僕を見下ろしているその視界が、映像のように僕の脳に浮かびました。
お化けだったら鳥肌ものですが、そういう感じはなく、
不思議と勇気が出る、見守られている感じがしました。
その時はよくわかりませんでしたが、
とにかく、背中は押されている気がしたので、
「自分の信じる道を行こう」と思いました。
だから一層、英語やスポーツ社会学の勉強に打ち込みました。
スポーツが人を幸せにすると信じていた(信じたかった)のです。
しかし、打ち込めば打ち込むほど、それは幻想であることに気がつき始め、
何より、
何かを成し遂げようとすればするほど、最期は孤独で終わる、
ということに薄々と気がつき始めました。
当時の僕が好きだった曲があります。
ザ・ピロウズのNew Animalという曲。
歌詞が衝撃的でした。
「触れたらなくなりそうな 夢を見て
それでも手を伸ばし続けている
ひとかけらさえも 残さないで
砕けた僕は 風になるだけ」
曲がすごい好きだし、歌詞もなんとなくかっこいいし、
「ピロウズのように格好良く生きたい」と思って、
「人間どうせ、ひとかけらも残さず死ぬのだから、やりたいことをやるのだ」と思って、
当時の僕はひたすら前進しようとしました。
さらに勉強に集中しようと、下宿していた京都を離れ、実家のある名古屋に戻りました。
そして、
引っ越しが完了した翌々日、知人の紹介で聖書に出会うことになります。
生活は激変し、
「宗教なんて弱い人が心の拠り所にするものでしょ。」と思ってた僕は、
人生初の、礼拝というものに参加することになります。
そこで歌った賛美の歌詞。
「主の前では 小さくなる
主の後ろでは 涙もろくなる」
ああ、あの日の夜中、
あのワンルームマンションで僕の側にいたのは、神様だったのでしょう。
進む方向もわからず、ただ前進しようとしていた僕を導き、
いま僕は、神様の前に立ちました。
どれほど愛して、僕をこの場所に導いてくださったでしょう。
自分があまりにも小さく思えます。
僕がしてきたことは、
神様が私にしてきてくださったことに比べれば、ちりのようなものです。
そんなような思いが込み上げてきて、そこから先は歌えなくなってしまいました。
歌おうと思っても歌えないのです。ただただ号泣。
側で付き添ってサポートしてくれていた人が、
「慣れない雰囲気の、初めての礼拝だし、歌うのが嫌になってしまったのか。。。?」
と思って心配してくれたそうですが、実はまったくの逆でした。
それまでの自分の生き方を反省して、神様についていこうと決心していました。
今でも、折にふれて、よく思います。
油断すると忘れるので、よく思うようにしています。
あのまま神様と関係のない人生を生きていたら、
「風のように」虚しく、孤独に人生を終えていたと思います。叶ったのか叶ってないのかよくわからない夢を見ながら。
神様の愛の大きさを知れば知るほど、自分の小ささを感じるしかなく、自分の行ないを省みるしかありません。
主の前に来て、これからも神様の愛の大きさと、
自分の小ささを学んでいけることが感謝です。
今日の礼拝前に、久々にその曲を歌ったのと、
礼拝の御言葉の内容で、当時を思い出したので、書いてみました。
死ぬその日にも、思っていたいです。
「自分、ちっさ。」
名古屋 主の栄光教会 ジンジャー