新渡戸稲造の「武士道」を読んで感じたことは、
キリスト、という存在を意識していなかったにしろ、
結局は、キリストの思想を理想として人間は生きているのだということです。
西洋では道徳のモデルとしてキリストの教えがその根底にありますが(現状は多様な価値観になってきていますが)、
反対側の東洋、その中でも極東と呼ばれる日本では、「武士道」というものが長い間、一種の倫理観として人々に根付いてきました。
「清廉」に生きること、
「礼」を尽くすこと、
などなど、
「武士道」という経典のようなものはありませんが、
現代の日本人にとっても、「武士道」というものが何か「心の拠り所」であり、
「理想の姿」のようなものであることは否めないと思います。
特に、「忠誠」を尽くすこと。
日本人はこの特性が強いと言われますが、
死をも恐れず、主君に忠誠を尽くす姿を、古来より理想としていたのではないでしょうか。
死に至るまで忠誠を尽くした人、
みなさん、どなたか思いつくでしょうか。
「武士道」という言葉を聞くと、僕はいつもペテロを思い出します。
イエス・キリストに出会って人生が変わった、漁師のペテロ。
新渡戸稲造の「武士道」にも出てきますが、まさにサムライソウルの持ち主。
逮捕され監禁されるとわかっていてもイエス様の教えを述べ伝え、
最後、逆さまになって十字架にかけられて死ぬ時も「イエス様を信じなさい」と叫んでいたそうです。
一度はイエス様を裏切ってしまいますが、最後は死に至るまでイエス様に忠誠を尽くしました。
しかも死ぬ時は笑っていたのだとか。
死ぬ時に笑う、というのちょっと常識を逸していますが、
恐らく、忠誠を尽くし切ったのだと思います。
「武士道」というものは明文化されていませんが、
「武士道」なるものを本当に成したいと思っていた侍が仮にペテロの生き様を知ったら、
絶対に「自分も同じように生きたい」と思ったに違いありません。
現代はペテロの時代のように殺されることはありませんが、
「何が正しいかわからない」時代だからこそ、そういう生き方をしたいと思う人は少なくないと思います。
地球の西側に生まれようが東側に生まれようが、
忠誠をはじめとした真の清廉さ、礼節、仁義を、
人間は無意識のうちに追い求めているのだと思いますし、
結局、ペテロのように、
キリストを、そして神様を正しくわかって初めて、
真の「武士道」のような生き方ができます。
何より、「武士道」を体現した真の侍は、
他でもないキリストだということが聖書を学ぶ中でわかるようになりました。
人類を救うために自分の命を犠牲にして、
しかも最も過酷な道を選択し、
人類を救うという神様の使命を最後まで全うする。
聖書こそ、「武士道」の経典です。
よし、サムライになろう。
名古屋主の栄光教会 ジンジャー