おいしいシリーズ:味のある思い出をおいしい食べ物と一緒に回顧するシリーズ。
大学卒業後に行った留学では、
オーストラリア第二の都市、メルボルンに1年半滞在した。
同じ教会に通う人たちとのシェアハウスで、
ニュージーランド人、韓国人、オーストラリア人、マレーシア人の個性的なメンツと過ごす日々だった。
シェアハウスのルールで、晩御飯は当番制。
ジンジャーが担当する水曜日は毎週、ジャパニーズ・OYAKODON(親子丼)だった。
初めはメニューを変えたりしていたが、途中から面倒くさくなってしまった。。。
今ならもっと工夫できる。。。あの頃は若かった。。。
お母さんの苦労を少しでも知れた一年だった。
火曜日の担当はオーストラリア人。
彼が出してきたのが、オーストラリアが誇るソウルフード、
フォーントゥエンティーである。
ケチャップ?とかで味付けしたオージービーフをパイで包んだ、
要は、ミートパイである。
これが、美味い。
シンプルで、美味い。
あの味を思い出すと、一緒に思い出すのが、
そのオーストラリア人の彼である。
彼はすごかった。
サッカーでオーストラリア選抜?に選ばれてアメリカに国際試合に行った実力者で、
ジンジャーがボールを持たずに全力で走っても、ドリブルをする彼に一瞬で置いてきぼりにされた。
口数は少ないが、一言がいつも的確だった。
そんな彼を、時折思い出す。
というのも、
彼は既に、聖書を学ぶのをやめてしまっているからである。
人から聞いた話によると、
いまはガールフレンドと楽しく過ごしているそうだ。
教会に行く時間より、そちらを優先したっぽい。
彼は、聖書を学び始めた時、お祈りをしていると、
右側にイエス様、左側に悪魔の姿が見えたらしい。
そしてイエス様に「こちらへ来なさい」と言われたそうだ。
そういう類の嘘を言うような人ではなかったので、
本人からこの話を聞いた時は結構びっくりした。
しかし、改めて思うのだが、
イエス様や、神様の姿を見ることが果たして重要なことなのだろうか。
「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。
退いても、彼を認めることができない。
左の方に尋ねても、会うことができない。
右の方に向かっても、見ることができない。」
(ヨブ記23章8節〜9節)
聖書に出てくるヨブが言うように、
一部の例外を除いて、大抵の人は神様やイエス様の姿を見ることはそうはないと思う。
わたくしジンジャーは一度も見たこともない。
ヨブも同じだったようだ。
ヨブは、忍耐の代名詞のような人で、
神様を熱心に信じていたにもかかわらず、
多くの資産を失い、愛する子供たちまでも失い、
妻や友人からも暴言を吐かれた。
それでも最後まで神様を信じ、感謝した。
そして結局、失った以上のものを得た。
ヨブのような困難を受けなかったとしても、
人それぞれ困難は受ける。
「聖書を学んで何になるのか」
「難しいことを考えずに今を楽しめ」
「何が正しいのかわからないなりに生きていくのが人生だ」
といったような葛藤があるだろうし、
日曜日に教会に行かなければ旅行にも行けるし、
合コンでお酒に身を任せて日曜日朝は爆睡、
といったような誘惑もある。
昔も今も、
神様を信じて愛して生きるのには様々な困難があるが、
ヨブは続ける。
「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。
彼がわたしを試みられるとき、
わたしは金のように出て来るであろう。」
(ヨブ記23章10節)
どのような困難があっても、
神様だけが私の進む道を知っていて、
金のような祝福を与えてくださると、
絶対的にわかって信じていたから、
ヨブはすべての耐え難い困難に打ち勝てた。
私たちも、
神様の道を行けば永遠な祝福があると信じるから、その道を行くのである。
忍耐しなさい。絶対に祝福してくださる。
実践した人が言うから、説得力がある。
信じるようになるために、神様の姿を見る必要はないと思う。
もちろん人によってはそれがきっかけにはなるが、
結局、それぞれの人生に働きかけられる神様をいかに見出せるかどうかだと思う。
フォートゥエンティの彼と仲の良かった、
別のオーストラリア人の親友が言っていた。
「彼が僕らのところに戻ってきた夢を見たよ。でも、髭を生やして、顔が老けてた。たぶん彼は、何年か後に、教会に戻ってくるんじゃないかな。」
そうであるならば、
その時は、彼にミートパイでも作ってあげて、当時よりは流暢になった英語で、
ゆっくり話をしたい。
名古屋 主の栄光教会 ジンジャー