ジンジャークッキー

元々はフツーの人(どちらかといえば宗教嫌い)、今は名古屋にある主の栄光教会に通うサラリーマンです。ジンジャークッキーのように、優しい甘さの中にスパイスが効いた神様との日常を綴っていきます。

ルディ

スポーツってある意味、残酷だなあと思うことがあります。

 

恵まれた体格、運動神経がなければ、

必ずどこかで、越えられない壁にぶつかることは間違いありません。

 

どれだけ練習しても大谷翔平選手のような打球が打てる人は限られるでしょうし、

バスケットボールだって、スピードがあっても身長が無ければ圧倒的に不利です。

 

そのスポーツがどれだけ好きでも、どれだけ練習しても、

誰もがプロの選手になれる訳ではありません。

 

じゃあスポーツにおける成功って、何なのか?

 

各個人の様々な意見があると思いますが、

ルディ・ルティガーという人の人生は、そのような疑問を深く問いかけているように思います。

 

この人の人生は「ルディ 涙のウイニング・ラン」という名前で映画になっており、

登場人物のやり取りがとても印象的です。

 

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三回も観たのはこの映画くらいかもしれない。

 

ルディは子供の頃から、強豪ノートルダム大学アメフトチームの大ファンで、

いつか自分もプレーすることを夢見て、高校時代も練習に明け暮れます。

 

しかし、身長は170センチに満たず、運動神経も普通、学業も悪く、

家族からは「お前に大学進学は到底無理だ。工場勤めをして普通の家庭を築け。」というプレッシャーをかけられます。

 

ルディもそれを受け入れ、一時は工場勤めをしますが、ある事件をきっかけに、

再びノートルダム大学進学を決意。

父親の反対を押し切り、ひとり故郷を離れ、

全米でも1、2位を争うノートルダム大学アメフトチームへの入部を目指します。

 

誰もが「無謀」だと思いますが、

編入試験勉強とトレーニング、4時間睡眠の猛烈な努力によって、

遂に入部を果たします。

 

しかし、念願のアメフト部に入部してからが本当の試練でした。

 

誰よりも真面目に練習に取り組んでも、

レギュラーはおろか控えベンチにも入れず。

家族にも、「本当にアメフト部に入ったのか?」と疑われてしまうシマツ。

 

レギュラーになれなくても、少なくとも選手であることを証明したいルディは、

数分でもいいから試合に出場させてもらえるように、監督室を訪ねます。

そこでのやり取りが、とても印象的でした。

 

ルディ:

「この一年で学んだことのひとつは、どれだけ熱心にしても僕はレギュラーにはなれないということです。

神様が数人の人たちをフットボール選手になるように創ったのであって、僕はその人たちではなかったということ、

それは、ある意味、既に受け入れています。」

 

監督:

「神様が、君のその心を、他の選手の体に入れてくれることを願うよ。」

 

この監督の言葉は日本語訳では、

「しかし神は君に熱意を授けた」

になっていますが、

 

このやり取りを通して、

人間が一体何に「成功」の基準を置くべきかを考えてみました。

 

その後、ルディは、

二年間で唯一、チームの練習をサボってしまいます。

それはどれだけ頑張っても試合に出られないという、現実に対する不満からでした。

 

その時のルディの考えは、

「自分は一角の人物であるということを誰かに証明したい」

というものだったのです。

 

仮に、

自分という存在を誰かに認めさせることが「成功」であるならば、

身長、体重、容姿、生まれ持ったスキル、年齢、状況、環境、

そういったものに都度、限界を感じ、疲れ果て、

続けていたことも止めてしまうでしょう。

 

しかし、監督が言ったような、

神様がその人に授けてくださった熱意だったり、心(それはもはや才能)を、

現実の世界で生かそうとすること。

ルディの場合だと、アメフトを通してそれを発揮すること(それこそスポーツの意義だと思います)。

 

他人に認めてもらえるかどうかではなく、

自分を創造された神様の意図を知ること。

 

スマートフォンはそれを作った人が最もよく使いこなせるように、

「自分」という一人の人間を最大限生かすには、神様の視点が欠かせません。

 

神様の視点で自分を使いこなして初めて、自分も満足し、

他人に有益をもたらし、創造主の神様が喜ばれます。

そしてくださるべきものを一層くださります。

 

だから普通より強度の強いモチベーションが生まれ、栄えるしかありません。

 

 

結局、ルディがどうなったのかは是非映画を見ていただきたいですが、

やはり、「成功」というのは、勲章や名誉を受けることではなく、

生まれ持った自分の才能を努力して最大限発揮し、

すべてをくださった神様に甲斐を感じてもらうことなのだなあと思います。

 

「成功」について教えてくださった、神様に感謝です。

 

 

名古屋主の栄光教会 ジンジャー