僕は学生時代、京都の祇園のバーで、ボーイをしていました。
バーテンダーというほどおしゃれではありませんが、似たような感じです。
祇園というのはかなり敷居が高いので、料金も高く、
席に座っただけでセット料金として12,000円、
僕がテキトーに作ったコーラが1杯1,000円(笑)という世界でした。
なので、来るのは、企業のお偉い様方中心。
楽しくお酒を飲みながら、そういう人たちが必ず始めるのが、
昔話などの、「おれ」が主語の話です。
当然、すべての昔話を聞きたくない、ということではなく、
一緒に楽しくお話しさせて頂いた方もたくさんですが、
困ってしまうのは、
遠回しに「おれはすごい」という話をひたすら続ける人。
それを楽しみに来店しているのだから、仕方がない部分はありますが。
自分の成功体験を話すにしても、
その成功は自分の承認欲求のためにやったことなのか、
お金のためにやったことなのか、
モテたいからやったことなのか、
そういうことのためにやったことならば、
ある程度は正しいことを言っていたとしても、
それで終わる話、ということになります。
承認欲求を満たすために成功したことを誰かに教え、
教えられた人がそれを実践したところで、
同じように承認欲求を満たすだけで終わり、その先の満足には進めません。
祇園でバイトしていた時、多くの人が、
「若造、おれが人生というものを教えてやろう」といった顔で、
色んな話を僕にしてくれました。
思い返すと、「人生をわかっていない自分自身」が怖くて、
わかったふりをしているような人たちが多かったような感じがします。
もちろん、そういう人ばかりではなく、
本当に感謝すべきこともありました。
それはまた、別の機会で書けたらなあと思っています。
僕に聖書を教えてくれた牧師先生に出会った時に、
また、その周りの人達に出会った時に、
僕が一番驚いたのは、
「おれ」の話が無かったのです。
「おれ」が出てきたとしても、登場人物の一部。
自分の成功体験も、「神様がしてくださった」。
ある人が教えてくれました。
「あの牧師先生はね、ただ神様のことを話しているだけなのよ。」
すべての仕事を、自分の満足のためにではなく、
神様のためにやっているからこそ、
結果として、「おれ」ではなく、
神様の話しか出てこないのだと思います。
そういう人なら、信じてついていっても、
最終的には神様に行き着くと思い、
今も聖書を学んでいます。
自分が今、行なっていることの中心に何があるのか。
神様なのか、承認欲求なのか、
すべての仕事は、神様と愛し合うためにすることである。
承認欲求の上にあるものが自己実現欲求であるならば、
僕自身を創造された、メーカーである神様ともっと愛し合ってこそ、
自己を実現できます。
辛い時こそ、
ただ、神様だけ、見なければなりませんね!
名古屋 主の栄光教会 ジンジャー