「息子さんが(今日の)始業式に来ていない」と学校から電話があり、
同じ会社で働くママさん社員が、お昼で早退していきました。
「申し訳ないです」と言いながら事務所を後にする後ろ姿を見ながら、
「学校に行きたくないのかなあ」と、息子さんの心境に思いを馳せていました。
というのも、春の始業式を思い返してみると、
我ながらあまり良い思い出が無いからです。
楽しかった思い出は、始業式を家族ぐるみでサボった京都旅行でしょうか。
おかん「風邪引いたって言えばいいわ。」
そういった具合で、
清水寺東山の麓、円山公園のライトアップされた枝垂れ桜を観に行きましたが(土日は大変な混雑なので平日くらいしかまともに鑑賞できない)、
あの美しさを目の当たりにした感動は、学校の始業式ではまず得られなかったでしょう。
仲の良かった担任の先生は、僕から電話で欠席連絡を受けると、
「そうかわかった。笑」と半笑いでした。笑
恐らく何かしら見透かされていた。笑
よい子は真似しないでください。笑
それ以外の、始業式の思い出といえば、
まず、季節の変わり目にめっぽう弱かった僕は必ずと言っていいほどこの時期に風邪を引いていました。
僕が風邪を引けば家族が春の訪れを感じるくらい、毎年体調を崩していました。
そして、仮に体調が万全で学校に行ったとしても、
また新たなクラスで、いつもの「学校社会」が作られていくのが嫌でした。
友達をつくるのが苦手だった、という訳ではありません。
むしろ友達は多い方でした。
しかし、学校社会が必然的に生み出してしまう、
「友達いない人=残念な人」
「お世辞にもイケメンとは言えず且つスポーツ(勉強)できない人=注目に値しない人」
といった、各個人に対する無言のレッテル貼りは嫌というほど感じていました。
僕に聖書を教えてくれた人たちの1人が、こういうことを教えてくれました。
「人は、他人を100%理解できるようには創造されていないそうだよ。」
目に見える証拠があるかどうかは別として、
そうだと思います。
人は、どうしても外側に見えるものが中心になりますし、
その人が経験した苦労を直接体験することもできません。
「本当のその人」を見ることは不可能で、何かしらのフィルターにかけられてしまいます。
しかし、神様だけは、本当の私を見てくれている。
御言葉を通して、そのように感じたから、
「人は孤独ではない」と知ることができました。
ちなみに社員さんの息子さんは、「始業式に行かずに道草くっていた」そうです。笑
Twitterだったら絶対イイねしてます。
名古屋 主の栄光教会 ジンジャー