ジンジャークッキー

元々はフツーの人(どちらかといえば宗教嫌い)、今は名古屋にある主の栄光教会に通うサラリーマンです。ジンジャークッキーのように、優しい甘さの中にスパイスが効いた神様との日常を綴っていきます。

唐揚げを見れば、

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雨を見れば雨を感じ、風に触れれば風を感じる。

唐揚げを見れば唐揚げが食べたくなる。

 

目で見なくても、

考えれば見るのと同じ。

 

悪いことも良いことも、

考えれば、感じる。

 

神様の御言葉を考えれば神様を感じるし、

裸の女の人を考えれば裸の女の人を感じる。

 

どちらが自分の人生を守ってくれるだろうか。

 

恐ろしいのは、

何を考えるかは自由だということ。

しかも基本的に誰でもできる。

 

だから考えはコロコロ変わる。

自分でもびっくりするくらい変わる。

 

何も知らない幼児のよう。

 

車道を歩いたら、走る車に何十メートルも吹っ飛ばされてぐしゃぐしゃになることも知らず、

ヤクザのいる裏路地を歩いたら、さらわれて売り飛ばされて一生苦痛を受けることも知らず、

 

好きなままに、好きな場所へ。

僕の考えはそんな感じです。

 

神様を考えること、

神様が自分に何をしてくださったのか考えることが、

 

神様と手を繋ぐこと。

 

1人で知らない道を歩きたいか、

ヤクザと手を繋いで歩きたいか、

神様と手を繋いで歩きたいか。

 

神様だけが私を光の道へ連れて行ってくださるでしょう。

有り余るお金が見えても、

裸の女の人が見えても、

神様が連れて行ってくださる光に向かって歩きたいです。

 

人間である以上、誰しもが美学を持って、

その「美しさ」に向かって生きているはず。

 

どんなにナナメに構えている人でも、

「これがおれの美学」というのが必ずある。

 

その美学を何に置くのか。

神様の光が最も美しいと僕は信じます。

 

何を信じるかは自由。

誰と、どの道を歩むかは自由。

 

1人で歩んでいくか、

ヤクザと手を繋いで歩んでいくか、

神様と手を繋いで歩んでいくのか、

 

「神様と共に歩む道の先にある、

その光の美しさ、

それが私にとっての美学である。」

 

って死ぬ時に言いたい〜〜

 

名古屋 主の栄光教会 ジンジャー