雨を見れば雨を感じ、風に触れれば風を感じる。
唐揚げを見れば唐揚げが食べたくなる。
目で見なくても、
考えれば見るのと同じ。
悪いことも良いことも、
考えれば、感じる。
神様の御言葉を考えれば神様を感じるし、
裸の女の人を考えれば裸の女の人を感じる。
どちらが自分の人生を守ってくれるだろうか。
恐ろしいのは、
何を考えるかは自由だということ。
しかも基本的に誰でもできる。
だから考えはコロコロ変わる。
自分でもびっくりするくらい変わる。
何も知らない幼児のよう。
車道を歩いたら、走る車に何十メートルも吹っ飛ばされてぐしゃぐしゃになることも知らず、
ヤクザのいる裏路地を歩いたら、さらわれて売り飛ばされて一生苦痛を受けることも知らず、
好きなままに、好きな場所へ。
僕の考えはそんな感じです。
神様を考えること、
神様が自分に何をしてくださったのか考えることが、
神様と手を繋ぐこと。
1人で知らない道を歩きたいか、
ヤクザと手を繋いで歩きたいか、
神様と手を繋いで歩きたいか。
神様だけが私を光の道へ連れて行ってくださるでしょう。
有り余るお金が見えても、
裸の女の人が見えても、
神様が連れて行ってくださる光に向かって歩きたいです。
人間である以上、誰しもが美学を持って、
その「美しさ」に向かって生きているはず。
どんなにナナメに構えている人でも、
「これがおれの美学」というのが必ずある。
その美学を何に置くのか。
神様の光が最も美しいと僕は信じます。
何を信じるかは自由。
誰と、どの道を歩むかは自由。
1人で歩んでいくか、
ヤクザと手を繋いで歩んでいくか、
神様と手を繋いで歩んでいくのか、
「神様と共に歩む道の先にある、
その光の美しさ、
それが私にとっての美学である。」
って死ぬ時に言いたい〜〜
名古屋 主の栄光教会 ジンジャー